ハマの海づくり 1

事始め  ー20年続けた潜水調査ー

  私が「海をつくる会」に入会したのは、東京水産大学を卒業して4年後の1989年だった。卒業研究で横浜各地の海を潜って魚の暮らしぶりを調べた私には、気になる二つの海があった。
  一つは金沢区の野島海岸。横浜随一の魚の豊富さと多様性とを兼ね備えた本当に素晴らしい海だったが、すぐ沖合で埋め立て工事が始まった。人工島の建設であった。聞けば、レジャーランドができるという。
  「とんでもない」と心の底から思った。人工島の造成で、横浜の宝ともいえるこの海がどうなってしまうのか? 社会的地位もカネもない若造に何ができるだろう? 考え続けた末に得た結論は、記録をとり続けること。こうして、卒業後も日曜日を使った素潜りによる魚の目視観察調査を毎月続けることにした。
  もう一つの気になる海は、山下公園。ここに初めて潜ったときの衝撃は、今も忘れることができない。氷川丸の桟橋に群れるメバルの大群。そこを横切るスズキの群れ。陸上に群れる恋人たちにも教えてあげたい、想像を絶するすごい世界。だがそこは横浜港の中心部で、海上保安部の許可なしには潜れない「近くて遠い海」だった。
  「もう一度潜りたい」との焦がれるような思いは、そこで海底清掃を行っていた「海をつくる会」との出会いで実現した。初めこそ「海をつくるとは大そうな」と思ったが、その名に恥じない立派な活動をしており、迷わず入会した。
  同会は、「果たして年一回、一ヵ所だけの清掃でハマの海はよくなるのか」と自問自答していた時期だった。そして、私が野島で行っていた潜水調査を、同会の定例活動に位置づけた。
  独りぼっちの調査は、時にくじけそうな時もあったが、大勢の仲間を得て現在まで続くものになった。二十年近くも同じ場所に潜り続けた調査の例は、臨海実験所などを除けば、おそらく全国にはほとんどないだろう。
  同会の活動は、山下公園の海底清掃と野島の定点観察を軸として、横浜沿岸の環境復元活動、野島・平潟湾流域の民間非営利団体(NPO)とのネットワーク形式や東京湾のNPO同士の連携へと広く発展していくのである。
海をつくる会・工藤 孝浩